私は一人で過ごすのが好きだ。
それは孤独ではなく、自分のペースで心を保つ生き方だと思っている。
そして、一人でいる時間が、いちばん私らしいと感じているからだ。
気づけば、いつも一人時間
私の場合、引っ越しが多かったせいか、
友人ができても、遠く離れると
自然に疎遠になっていった。
それはただ単に、その「一人でいる環境」が、
私の性に合っていたのかもしれない。
それでも、ふと誰かと話したくなる瞬間がある。
だけど誰かと話をしたいと思う時、電話をかけたり、
「お茶しない?」と気軽に声をかけられる友人が
私にはいない。
程よい良い距離をおいて、お付き合いしている友人はいても
急なお誘いができる友人はいない。
何日も前に連絡を取り合い、
お互いの都合の良い日にやっと会うことができる。
だからと言って、
もし友人の一人から急な電話があっても、スルーすることはしないし、
急なお誘いであっても、都合が合えばお付き合いをする心づもりはある。
だけど、私から働きかけることはほとんどない。
話したいけれど、話せない
私から電話をしたり、お誘いをしないのは、
まず、友人の都合を考える。
それに、私とお喋りしたり一緒に居て、楽しいだろうか?
友人が心地よいと思っているかどうかが
どうしても気になってしまう。
私と会うということを 承諾してくれたのだから
それで良いはずなのに、自信がもてない。
私は、人を信頼する力が弱いのかもしれない。
だから、話すことが億劫になるのだと思う。
人と話すというのは、案外、心のエネルギーを使う行為だ。
相手の反応を読み取って、言葉を選んで、
そのたびに少し疲れてしまう。
現代は、少しも退屈させてくれない
幸い、このご時世、一人で家に居ても退屈することは無い。
テレビは、いつでも何かしら楽しませてくれる番組を
放送している。
ネット環境が整っていれば、YouTubeは観放題。
無料のゲームもできるし、
課金して、更に楽しむことができる。
でも、それは私の思う「一人でいる時間」ではない。
人と繋がっていない時間
以前は、心を開いて話せる友人がいないと寂しいとか、
私の人間性に問題があるのではないかと思っていた。
人に話すことで苦しみは半減し、嬉しさは倍増する――
そんなふうにも信じていた。
けれど、年齢を重ねていくうちに、
一人でいる時間がいちばん居心地が良いことに気がついた。
それは、人との関わりに疲れたからではない。
誰にも気を遣わずに、自分の思考や感情の流れを
そのまま感じられる、貴重な時間だと分ったからである。
静かに過ごすうちに、
自分の中にある“本音”にも気づいた。
内側の静けさを大切にすることで、
一人で心を整える力も、育っていった。
「一人でいる環境」が、
「一人でいる時こそ整う」という確信に変わっていったのだ。
人と繋がっていない時間は、
誰かと比べて安心するためのものではなく
むしろ、ありのままの自分で良いという
静かな自信を育ててくれる時間だと思っている。
相変わらず、人を信頼する力が弱いままである。
それでも、今の私には、これが自然な距離なのだと思う。
一人でいる時間が、私を整えてくれる――
そう思えるようになっただけでも、ずいぶん変わった。


