病気療養で休むという権利、理由の置きどころ探した私

日常の気づき

11月も半ば過ぎた頃、入職して半年の職員さんが病気療養を申請した。

病気で休む権利は、今の時代、心と身体の回復のために確立されている。
その制度はその人の心身だけではなく、生活を守り、
回復するまでの時間を与えてくれる。

その「病気休暇制度」で休むという選択が、私の心に曖昧な揺れを起こした。
職場での可視化されない心の置き場、広がる空気、戻ってきた時の心構え。

見つめたいのは制度の是非ではない。
私が気になったのは誠実さがどこに置かれているかだった。

人が制度を選ぶ時、その体調不良の理由は、職場の環境、
人間関係などが挙げられると思う。
そして復帰する意思としては、仕事に対する気力・意欲があるかだろう。

長期間仕事を休めば、復帰を支えるのは“覚えている量”よりも
“覚え直せる気力”のような気がする。
今回のように半年間しか仕事をしていなければ尚更だ。

制度が守れるのは治癒までの時間と生活であり、
復帰の気力までは代行できない。
辞職願さえ代行サービスがある時代でも、
もう一度立ち上がるかどうかはその人次第。
どちらも本人にしか宿せない領域である。
だからと言って、私が問いたいのは
本当に復帰するのかという覚悟そのものではない。

問いたいのは、制度を使った“結果”ではなく、制度を選んだ“理由”だ。
休む理由が「逃避」でも「甘え」でもないと言い切るのは難しい。
それは、本人も確信できないし、周りの人間も判断できない。

それが難しい事だと分かっていても、
その制度を選んだ“理由”の中に、誠実さがあるかどうかを知りたかった。
そして邪念はないと思いたい。

こんなふうに
「誠実さは?」「覚悟は?」と問いを向けてしまう人の視線が、
結果として「病気療養を選んだ人」を追い詰めてしまう可能性もある。
そもそも、人が選んだ制度の理由を、他者が評価するべきではないのだ。

それでもなお、
制度の“使い方の理由”が気になったのは、
私自身が、無意識のうちに
自分の価値観というものさしで測ろうとしていたからだと思う。

今回の出来事を通して、
私は、自分の認知と感情のズレに気づいた。
そして、そのものさしの置きどころを、
改めて見つめ直したいと思うようになった。

💻関連記事はこちら👇

タイトルとURLをコピーしました