前回の記事で、仕事を覚えるうえで
上司との言葉のラリーは大切だと書いた。
それは職場だけに限らず、
人間関係においても同じだと思っている。
スピードは違っても、
一連の会話がテンポよく進むというのは、
話し相手を退屈させず、
どこか小気味よさを感じさせる。
私は、言葉にウェットが効いている会話が好きだ。
つまり、感情や間合いがあり、
乾いたやり取りにならないということ。
交わす言葉に温かさがあり、
どこか共鳴している感じがある。
返しのリズムが合えば、ラリーは続く。
冗談を言えば、愛あるツッコミが返ってくる。
そんなやり取りが、私は楽しい。
私は、
笑いを誘いたい。
言葉でラリーをしたい。
会話の中に、それを自然に織り込んで楽しみたいと思っている。
先日、友人の一人が
「私、丙午の生まれなんだ~」と、
少し自慢気に話してきた。
六十年に一度巡ってくる生まれ年なのだという。
私が
「怖いから近寄らんどこ」と返すと、
「きのう貸した百円、利息を高くするからね」と打ち返された。
冗談というのは、
実はとても高度なテクニックなのかもしれない。
相手に余裕や信頼がなければ、
冗談は嫌味や意地悪に変わってしまう。
その場の温度、雰囲気、関係性。
すべてが揃っていなければ成立しない。
悪気がなかったからといって、
許されるとは限らない。
最終的に、誰かが謝らなければ
その場が収まらないことも起きる。
これはもう、
冗談が冗談として着地しなかった悲話である。
そして、どちらが悪いという話ではないとしたら、
それは関係の「差」として表れたのかもしれない。
人は、
同じステージにいるときには、
同じ冗談を言っても笑い合える。
けれど、関係性の差が生じた相手には、
同じ言葉が不愉快に響くことがある。
安心して言葉を投げられる関係とは、
受け取る力があるかどうかだと思う。
その力がなければ、
言葉は笑いに変換されない。
どこまでが冗談かを理解してくれる。
そんな信頼関係があってこそ、
言葉のラリーは続く。
一方で、
高度なテクニックを必要としない、
安全な関係で良いのなら、
ぬるい温度で穏やかに会話すればいい。
言葉と感情を選び、
会話はただ場を温めるためのものになる。
思考は、相手を不愉快にさせない方向へと動き、
良くも悪くも、心は揺れない。
それは争わないための知恵でもある。
けれど、刺激も楽しさもない。
そして、間柄が深まることもない。
浅い関係であれば、
対話に誠実である必要もないし、
途中で会話の責任を手放しても構わない。
前回の記事で使った
卓球のラリーという比喩。
あれは「仕事」や「上司」との関係を
説明するための言葉だった。
けれど今、私が一番実感しているのは、
言葉そのもののラリーである。
・返ってくる
・受け止められる
・少しひねって返される
・間がある
・途切れない
それがあるか、ないかで、
会話も、人間関係も、仕事も、
まったく別物になるのだと分かった。
言葉のラリーができる場所をつくること。
そして、
そういう場所を選ぶこと。
どちらも、
自分自身で選べるのだと思っている。
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