“お話どろぼう”は、誰の中にもいる

日常の気づき

先日、
以前の職場で一緒だったパートさんと
ランチをした。

食事も終わりに近づいた頃、
私は岩手旅行のお土産を渡した。

「岩手に行ってきたから」

そう言うと彼女は、
「いつ頃行ったの?」
「どこに行ったの?」
と聞いてくれた。

その瞬間、
私の頭の中には、
岩手で見た景色が次々と浮かび始めた。

街中から見える岩手山に感動したこと。
宮沢賢治記念館の静かな空気。
中尊寺で感じた歴史の重み。

何から話そうかと、
少しワクワクしていた。

ところが、
買ってきたお土産の中に
“宮城のずんだバター餡”があったことから、
会話は急に彼女の宮城旅行の話へ変わっていった。

「私も宮城に行ったことあるのよ」
から始まり、
そこからアルペンルートの話になり、
最後にはスマホの写真まで見せてくれた。

しかも、
それは二年前の旅行の話だった。

気づけば、
私の岩手の話は、
最初に「どこに行ったの?」と
聞かれただけで終わっていた。

彼女は自分の宮城旅行の話をして
満足そうだった。

でも私は、
「私の話は、最初だけで終わったな」
と、心の中で終止符を打った。

こういう人を、
世間では“お話どろぼう”と言うらしい。

誰かが話し始めると、
「私もね!」
と、自分の話へ切り替わっていく人のことだ。

人は誰でも、
自分の経験を聞いてほしい。

「私はこんなところへ行った」
「私はこんな体験をした」
「私も知っている」

そう言いたくなる。

特に、
普段あまり自分の話を聞いてもらえていない人ほど、
“話せるチャンス”が来た時、
一気に自分の話をしてしまうことがある。

「それ分かるよ」
と気持ちだけ返せばいい場面でも、
人は不思議と、
「私もね」
と、自分の体験を語り始めてしまう。

けれど中には、
“共感”というより、
もっと強く、
「自分の話をしたい」
という欲求が前に出る人もいる。

相手の話題が何であっても、
そこから自然に自分の経験へつなげていく。

旅行の話でも、
病気の話でも、
テレビの話でも、
職場の話でも、
最後には自分の話になっていく。

たぶんその人の中では、
会話とは、
「相手の話を受け止める時間」
というより、
“自分を表現する時間”
に近いのだと思う。

そして、
その欲求が強くなると、
会話の中心が、
相手ではなく“自分”になっていく。

すると、
相手の話を聞きながらも、
頭の中では、
「次は自分が何を話そうか」
と、次の話題を探し始めている。

だから、
相手の話を深く味わう前に、
自分の記憶や体験へ意識が移ってしまうのだ。

もしかすると、
そういう人は、
普段から
「聞いてもらえない寂しさ」
を抱えているのかもしれない。

彼女の中では、
会話を奪っているつもりはなく、
むしろ、
私の岩手旅行の話に
“参加している感覚”
なのかもしれない。

あるいは、
宮城旅行の思い出を、
ずっと誰かに話したかったのかもしれない。

でも、
思いっきり話せる機会がないまま、
その気持ちが残っていたから、
二年後の今、
私に話したのかもしれない。

会話というのは、
ただ言葉を交わすことではなく、
「この人は、ちゃんと私の話を聞いてくれる」
と感じられると嬉しいし、
その人と会うことが楽しいと思える。

人はみんな、
自分のことを話したい。

自分を分かってほしいし、
聞いてもらえると、
どこか安心する。

だからこそ、
気づかないうちに、
相手の話へ自分の経験を重ね、
いつの間にか、
“自分の話”へ変わってしまうことがある。

きっと私も、
どこかで同じことをしている。

「分かる、私もね」という言葉の中には、
共感したい気持ちと、
自分を分かってほしい気持ちの両方が、
混ざっている。

本当の共感とは、
すぐに自分の話を返すことではなく、
まず相手の気持ちを、
そのまま受け取ることなのかもしれない。

「それで、どう感じたの?」
「楽しかった?」
「それは大変だったね」

そんなふうに、
相手の話の続きを、
ちゃんと聞ける人になりたい。

案外、人は、
“話したこと”より、
“ちゃんと聞いてもらえたこと”の方が、
心に残ったりするものだ。

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