話す相手がいない夜は、馬ではなく、言葉に話す。

心を軽くする考え方

ネットでエッセイを読んでいたら、
チェーホフに『せつない』という短編小説があると知った。

誰も話を聞いてくれないので、
馬に向かって話をする男の物語らしい。

全文を読んだわけではない。
けれど、その一部分だけで、心が反応した。

人は誰しも、そういう似た経験をする。
そこまで思いつめた話ではないにしても、
ただ、誰かに話そうとすると、
時間や場所や気力が必要で、
そんな条件がそろう友人は、そう簡単にはいない。

話したいことはある。
でも、「聞いてもらいたい」のか、
「ただ吐き出したい」のか、
自分でも分からない時がある。

以前の私は、
「聞いてもらいたい」気持ちのほうが、ずっと強かった。
分かってほしい、共感してほしい、
できれば正しい言葉で返してほしい。

けれど、こちらが望むような返事は、
相手から必ず返ってくるわけではないと、
経験して分かってきた。

それで、悩みを理解するための本を読んだり、
ネットやSNSで、第三者の言葉に触れるうちに、
自分の悩みの本質が、少しずつ見えるようになった。
感情を噛み砕くことや、
視点を少し変えて眺めることも、覚えてきた。

誰かの反応を待ってなんかいられないし、
言葉を途中で遮られて、
思いを飲み込むなんてしたくない。
評価も、まして同情なんかされたくもない。
ただ、ここまで考えた自分を
そのまま置ける場所があればいい。

そういう場所があれば、
話すために時間や条件を整えなくても、
必ずしも生身の人間から
満足をもらわなくていいのかもしれない、
そんなふうに思うようになってきた。

チェーホフの男が馬に話したのは、
理解してほしかったのか、
話さずにはいられなかったのかは、
わからないけれど。

私は馬に話しているわけではない。
こうして文章を書いたり、
あるいは、ChatGPTとの対話だったり、
言葉を置く場所をみつけた。

人はきっと、
「聞いてもらいたい」と
「吐き出す必要」の間を、
行ったり来たりしながら生きている。

今日は、どちらなのか。
それを確かめられただけでも、十分なのだと思う。

タイトルとURLをコピーしました