怒った顔が苦手だった私へ

仕事と私

前回の記事で調剤薬局の仕事を辞めたことを書きました。

その理由は、
仕事ができなかったからではない。
忙しかったからでもない。
薬局の仕事を甘く見ていたからでもない。

私は、自分を委縮させながら働き続けたくなかった。

それと、もうひとつ。
私は、先生の怒った顔が苦手でした。

なぜか、先生の怒った顔を見るたびに、
父の怒った顔と重なっていました。

父は、悪い人ではなかったけれど、
感情表現が不器用な人だったと思います。

特別ひどく怒られた、
という思い出があるわけではありません。

でも、私の中には、

「怒らせてはいけない」
「ちゃんとしなきゃ」
「機嫌を損ねないようにしなきゃ」

そんな感覚が、昔からありました。

これは、父を責めたいという話ではなく、
父が悪かったと言いたいわけでもありません。

先生の怒った顔。
父の怒った顔。

その二つが、私の中で重なって、
家に帰ってからも、何か切なさみたいなものが
重く沈んでいました。

幼いころに置き去りにされた感情が、
今になって浮かび上がってきたような感じです。

私は、ずっと、
その感情を見ないようにしてきたところがあります。

嫌だったね。
怖かったね。
不愉快だったね。

そう自分に言う前に、

もう終わったことだから。
仕事だから。
次に行こう。

そうやって、さっさと片づけてきました。

それは、それで私が生きていくために
身につけた術だったのだと思います。

でも、その分、
自分の中の小さな声を置いてきたのかもしれません。

それでは、怒った顔が苦手な自分を、
どうしたらよいのだろう?と考えてしまいます。

怒った顔を見ても平気な人にならなければ。
強い言葉に動じない人にならなければ。

そう思うと、また自分を責めてしまいます。

でも、今の私は、
無理に平気になろうとしなくてもいいのかもしれない、
と思っています。

もし、また誰かの怒った顔に体が反応したら、
まずは自分の中で起きていることに気づきたい。

「ああ、今、私は怖いと感じている」
「体がこわばっている」
「怒らせてはいけないと思っている」

そうやって、自分の反応を確認する。

相手が怒っていることと、
私が悪いということは同じではない。

相手の機嫌を直すことと、
私がすべて受け止めることも同じではない。

そう思えるだけで、
相手の怒りと、自分の感情を少し分けて見られる気がします。

そして何より、
その時の自分に、ちゃんと言ってあげたい。

嫌だったね。
怖かったね。
体がこわばったね。

今までは、そう感じた自分を置き去りにして、

「もう終わったことだから」
「仕事だから」
「次に行こう」

と片づけてきました。

でも、これからは、
次に行く前に、一度だけ立ち止まりたい。

私は今、何を感じたのか。
何が嫌だったのか。
何に体が反応したのか。

それを分かってあげるだけでも、
昔の私を、少し迎えに行けるような気がします。

怒った顔が苦手な自分を責めるのではなく、

「ああ、私はそういう反応をするんだな」

と知っておく。

そして、その反応をした自分を、
もう置き去りにしない。

それだけでも、これからの私は少し楽になる気がします。

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